私が最初に学んだ手裏剣術は日下(くさか)流でした。使用する剣は四角形の軽量棒手裏剣です。重量剣は
成長期の少年に不適当なので、間合いやタイミングを習得する為の一環として稽古しました。中学三年の終
わり頃には、五間間合いで尺的に9割以上打ち込んでいました。・・・ちょうどその頃、事件が起こりました。
私が少年時代を過ごした所は東北屈指の漁港でしたから、気の荒い漁師達の喧嘩は日常茶飯事だった。
事件というのはそうした漁師達の喧嘩に関わることです。・・・二人の男が喧嘩となって、一方は持っていたマ
キリ(作業用の短刀)で相手の胸部と腹部を突き刺し、刺された側の男は重傷にひるまず相手を組み伏せて
ビール瓶で突き刺した・・・・・。双方ともに重傷を負うという喧嘩でしたが、命だけは取り留めたそうです。

それから間もなく「合戦拵真剣」の稽古に変わりました。・・・・・その時から軽量剣とは完全に決別したのです。
  凄いスピードの分銅鎖 2011年10月12(水)分銅速度・時速229kmを計測しました。                          
平野傅承剣




    


入門ガイド


大黒様











 240g shuriken use. Distance 8.1M
     ↑  ↑  ↑  ↑  ↑
   動画の最後の方に、 四間半間合い
 からの撃ち込み稽古の
シーンが録画
 されています
(立ち位置三間半と言ってますが、
  四間半の誤りです)




     ↑   ↑   ↑   ↑   ↑
稽古用の剣です。鍛造・焼き入れをしています。
稽古用の剣は、通常、巻き藁や畳そして薄手の合板などを的にして使用する初心者専用の剣です。
薄刃造りの真剣と異なり、欅のような堅い木には深く突き刺さりません。どうかご了承ください。


補足:

当流には『雙飛剣』『合戦拵真剣』『稽古用の

剣』のほかに、『合戦拵真剣』をサイズダウン

した四十匁仕様の剣が存在します。主として

女子や成長期の年少者が用いるものです。


しかし、これら剣の大小軽重は、便宜的区分

けであって、あくまでも、それを用いる者の身

体サイズに合わせて剣の寸法を調整する事


それが後藤傳に説くところの教えです。





日下流吊るし木 Click





  映画や小説の中で、手裏剣術の達人が曲者を

狙ってとっさに手裏剣を投げる。手裏剣は狙い過

たず見事に命中、曲者はその場に倒れるか逃げ

去ったりなどする。

   
 手裏剣術の名人というものはそうしたものと、世

の多くの人達がイメージしているように、少年の頃

の私もまた同じように考えていました


 しかし実際はそうではありません。他のスポーツ


と同様に事前のウォーミングアップが必要なの


プロ・テニスプレーヤーの正確なサーブも、充分なウ

ォーミングアッブが出来ていてこそ可能なのです。



但し、平野傳の打法が、余にある手裏剣術流派の

打法と決定的に違うところは、ウォーミングアップ

無しに、いきなり打剣しても、筋肉や靭帯を痛める

危険性が無い打法であると言う事に尽きるでしょ

う。


例えば、ピッチャーが、ウォーミングアップをせず

に全力投球をやったとしたならば、間違いなく肩を

傷めてしまう筈です。平野傳打法は、身体を急激

に瞬発させる事の無い「ゆったり打法」ですから、

咄嗟の場合に対応した、不意の打剣に際して最

適な打法であると言えます。



後藤翁の言によると、日下(くさか)流手裏剣術


稽古では、二間間合いで寸的(直径一寸的)


三間間合いでは五寸的を、四間間合いでは七


的を、 六間間合いまでは尺的となり、百本中的中

率七割以上が、 およその合格基準とされていた

そうです。
 
 現代の手裏剣術者で、 四間間合い七寸的を狙

い撃って、100本中70本以上的中させ得る者が

果たしてどれほどいるのでしょうか?


軽量剣を撃ってみました。

(角型7mm・全長150mm・重量50g)

                   2007.02.10(土)

お断り!

2005年1月15日に当サイトを開設して以来、今日まで十指に余る人達が、私
にコンタクトを求めて来ました
そうした人達が純粋思考で術理を追求したいと
言う動機であるならば、私自身それを拒む言われは有りません。中には根掘り
葉掘り問い質す等する方も居られましたが
差し障りの無い程度まではと好意
的にDVD動画資料などを贈るとか、メール交換などの対応を取って参りました。
しかしながら・・・・・何しろ、スパイ紛いの人物を送り込んで来る流派も有るなど
して、綺麗事では済まないのが武術界らしいのです。 
結果、それまでは細身の手裏剣を用いていた流派が、突如、門外不出にしてい
た大型手裏剣を公開するとやったり、他者の例では、ちゃっかりと投剣術を名乗
ると言った始末です。               
こんな例もある様です〜♪Click

  言葉巧みにO松氏に近づき、パクリ完了で悪口雑言。
  明○○影流の手裏剣合宿に参加、パクリ完了で悪口雑言。
  私も全く同じケースで悪口雑言
  私が教えた「入り身打法」を「順体打法」と言い変えパクル
  先天的に独創力が欠落しているので、パクリ依存重症患者
  に成り果ててしまったのが実態。

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当方多忙に付き、HPの更新もままならない状況になってます。


依って・・・・・・、
自今、伝統武術としてのオリジナル性を尊重される方、及び剣製作ご希望の方
以外の対応は一切致しかねます。どうぞ其の辺りの事情を御汲み取り下さい。


平成二十年 初春の日に際し・・・・・、             近江 吉継  記す。


    
      世の中に
  蚊ほどうるさき ものはなし
  
文武文武と 夜も眠れず


     寛政の御改革。天明七年から寛政五年(西暦1789〜1793年)
     時の老中松平定信公の治世、世に言われる寛政の御改革(尚武政策)を茶化した落首中の名作です。



     松平定信の尚武政策に依って全国規模で武術熱が盛り上がりました。後藤家の先祖も時代の刺激を受け、
     文字記録を媒体とする事無く、唯一口伝のみで継承されてきた平野傳に時代の光を当てるべく、文字という
     表現媒体を通じて、伝承の明確な体系化の道を選びました。そうした意図を以って導入したのが、当時在米
     沢、山邊氏が継承の日下流でした。
     古い時代に於ける武術指導者の多くは、読み書きの出来ない(文盲)ことの方が普通だった様です。
     ちなみに、武田信玄の家中でも、読み書きの出来る者は、武士300人中に於いて一人の割合であったとも
     云われています。その最も顕著な所では、日本剣術界の大流の一つである一刀流開祖・伊藤一刀斎もまた、
     文盲であったことで知られています。従って、一刀流伝書の文言は、後世の推測と創作、との説も有ります。
     そうした時代背景でしたから、当然といえば当然のこと、平野傳の継承も全て口伝に依るものであって、技の
     一つ一つに名など付けられている筈も有りませんでした。
     ・・・・このまま座視していたならば、伝承の真実が曖昧になってしまうと憂い、当時、術理体系(指導マニアル)
     が出来上がっていた山邊傳日下流に着目したのだと云います。(平野甚右衛門さんの稽古法方は原始的に
     して素朴の極地にあります)


     後藤傳とは?平野傳と日下流が融合したものであるとご理解下さい!


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     その始まりが延宝(1673)の頃と伝えられる日下流剣術は、今で言うところの総合武術です。
   
   一流一派を名乗るからには、あらゆる武器に対応出来る備えが無くては成立するものではありま

   せん。
当然、日下流剣術も武芸十八般に通暁していたのでしょうが、今日において殆どのものが

   失傳し、日下
流の残滓を伝える者は、どうやら私一人になってしまった様です。私は日下流の皆

   伝を受けた身ではなく、従って、武歴として日下流を挙げるのが正しい在り方だと思って
います。

     斯くほどに未熟な伝承者ではありますが、中には、古流でなければ在り得ない技も,幾つかは相伝として

     護って居ります。

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     小学校四年生の手裏剣術初心者だった私は、たった一ヶ月間の単純な基礎稽古の結果、手裏剣術界の

     定説では考えられない、直打法に依る二間半間合い刺中率95パーセント越えを経験しました。

     日下流始祖の工夫とされるその独特な基礎稽古法は、決して、他に類例を求める事の出来ないものであ

     って、その合理的にして簡潔な稽古体系は、期待を大きく上回る即効性をもたらしてくれること確実です。

     
※日下流に関する要望が寄せられています状況も在って、現在,改めて日下流を見直しているところです。 
     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

     さて・・・・・・・、

   そうした中にも、日下流手裏剣術に関心を寄せる方もチラホラと現れ、近頃では日下流40匁剣の

   注文も
入る様になりました。祖先の辛苦の結晶である「日下流八角棒手裏剣」を手にして、不満

   を口にした方は
、いまだかって一人も居りません。

   
(余談=数日前に完成させた剣が、東欧のD国へ向けて旅することになりました)

                                                               2007.08.21(火)



      当時ラーメン一杯の代金は40円でした。それを現代に当てはめて見ますと、ラーメン一杯の代金が
     約400円として、鍛冶職人の造った手裏剣単価を4000円と仮定した場合、ラーメン10杯分の代価と
     手裏剣一本の代価が拮抗したものとなります。それをラーメン一杯が40円の時代に当てはめて見ます
     と、まったく同じ比率となります。貧しい時代ではありましたが、適正価格内の代価であった事に、改め
     て気付かされた次第でした。                              2009.10.26(月)
     



     私がまだ小中学生の頃、古い船釘を手裏剣に打ち直した四角棒手裏剣の価格は、六本で三千円近くし

     たものでした。(ラーメンが一杯40円の時代です)そして八角棒手裏剣の価格は、四角棒手裏剣よりずっ

     と高価なものだったのです。田舎鍛冶屋の技術では、八角棒手裏剣の流麗なラインを削りだすことなど

     到底不可能でした。かって、○木さんが懇意にしている鍛冶屋に頼んで「合戦拵え真剣」のコピーを造っ

     て貰ったことがありましたが、結果は、私が造ったオリジナルの剣よりも高額な一本単価8000円也の代

     金を請求され、手にしたものは怖ろしいほどイビツな形をした手裏剣だったのでした。

     ∴一流の鍛冶職人が手造りした、四角棒手裏剣と八角・紡錘形棒手裏剣の価格差は約四倍です。

     さて・・・・・・、

     稽古が終われば、手裏剣は後藤翁に返却することになっていました。そうした物のない時代の中に在って、

     後藤翁秘蔵の八角棒手裏剣は、その出来栄えから見て野鍛冶の作ではなく、明らかに刀鍛冶でなくては

     削り出すことの出来ぬラインで形作られていました。 私がその剣を撃たせて貰えたのは、ほんの僅かな

     記憶しかありません。剣の性能に関しては、八角の方が明らかに撃ち易いと感じました。それで八角棒手

     裏剣に統一している訳です。






 お知らせ!

 
日下流四角棒手裏剣二種(全長五寸五分〜全長七寸)を復元作業中です。
 
 私が最も評価している鹿島神流の手裏剣にも劣るところの無い、バランス
 
 と打ち易さの手裏剣で、長さと重量が勝っている分、威力は大きいです。

                             2008年5月6日(火) 記す。



「日下流八角棒手裏剣」
全長180mm軸径13mm重量150g

(一本当り製造所要時間、9時間以上)



『撃ち手』の技量次第ですが、この剣は直打滑走打法で八間以上撃てます。






                               「日下流撃ち針・五寸」 
                           全長五寸(150mm)断面四角、一辺・一分(3mm)重量10g

日下流撃ち針術・試し撃ち動画UPしました。2007.06.17(

日下流撃ち針・強度テスト動画UPしました。 2007.06.20(





(火造り鍛造直後の画像です)

                                     2007.06.14(木)
後藤翁の手控えには、「撃チ針ノコト五寸一分 四角ニ造ル」と有りました。先端の断面は四角もしくは丸も可。

                                     2007.06.14(木)


                                    2007.06.14(木)