形正シカラザレバ剣亦正シカラズ、弓矢ノ軌道デ手裏剣ヲ発射スル為ノ形造リ

        平野傳投剣術の習得を希望する方が居られるのならば
 

    
  
        
   私は可能な限り、協力を惜しまずに徹底指導する覚悟です。

      
    但し、熱心な方の中から十名までが当方の限度です
                   



    


入門ガイド








   
                         北上川(撮影・昭和41年6月某日)   

在りし日の後藤次利 翁

    この写真は、昭和41年の秋日に私が撮影したときの一枚です。この頃の後藤翁は

70歳を過ぎて居りましたが、力自慢の若者達と腕相撲をとって片っ端から捻り倒すほど

の矍鑠(カクシャク)ぶり
でした。 五尺九寸余の長身と稀に見るほど骨太の骨格もさるこ

とながら、言葉をもって表現することの出来ない、独特の雰囲気の持ち主でした



 後藤翁は、古・林崎流を使った。その投剣術と居合い術は精妙に一体化していた。

右入り身構えから
合戦拵え真剣で牽制、左手は鯉口を切るのと鞘送りとが同時になされている。

剣を投じた右手はそのまま束へと掛かり、抜刀の動作へと自然に連繋していた。そしてそこには

寸分の無駄もなく、完全な一つの流れを形成していた。

1箱30円也

昭和29年当時、白黒写真名詞サイズ一枚の代価で、ゴールデンバット三箱を買うことが出来ました。
戦後復興途上の貧困な時代、余程裕福な者でなければカメラなど持てる時代ではなかったのです。




私の祖母のはなし・・・・・・・。

 
私の祖母は、明治11年9月福井県武生の旧家竹間家に生を受けました。名は時子と申し、朝

倉氏の重臣であった山崎本家から嫁いで来た先祖(女性)の名を頂いたことを、大層誇りにして

おりました
山崎本家は知る人ぞ知るところの中條流筆頭の名家でした。またそうした家系だった

のでしょう。

「手裏剣術こそ体力に勝った殿御衆に手向える唯一の術じゃ!」・・・と、祖母は折に触れてそう申

して居りました
祖母は小太刀手裏剣術を相当やったらしく、少年のチャンバラ技などは素手で

くあしらわれたものです。

「男の子が剣術をやらいでどうするか!」との祖母の一言で、私が小太刀を手にする羽目になった

のは小学四年のときで、 その日から入身構えでの片手突きを延々とやらされました。

それも刀身を水平に寝せて、左右手で交互に小太刀を持ち代えながら片手突きを繰り返す。そう

した足捌きが、今日の結果として投剣術にそのまま生かされることになったのです。


そうしたある日のこと・・・・・・、

祖母が突如
「剣術の師匠ならば仰山と居るが、手裏剣術の師匠はそうざらには居らん」と言って引

き合わされたのが、後藤翁だったのです。





稽古の第一段階は、正座姿勢での撃ち込みから実施します。
 

 
正座姿勢打剣の場合は、至近距離からの打剣と言う制約から、どうしても剣の跳ね返りによる身体

的危険に直面してしまいます。如何にそうした危険を回避するか、それが今日までの手裏剣術修行

上の切実な問題でした。


Click hear


 
剣の跳ね返りによる事故は、他聞にもれず,当流の修行者も経験したことでした。

そうした最中に登場したのが、F氏考案の『油粘土の的』だったのです。当流では油粘土の的を正式

なものとして認定し、入門者の方には自作して頂いて居ります。詳細は『油粘土の的ページ』を参照し

て下さい。




的の設定を終えたら・・・・・・


 
的には三穴(眼・鼻・口) の玉子サイズの丸印を書いて一間先に置きます。正座姿勢で膝の

前から一間ということです。そして三穴は眼の高さにセットして下さい。   
 (さんな → 三穴)


重量のある剣を撃つのには、どうやら体の使い方が違うようです。

 

 まず六ヶ月間は一間の間合いで、次の三ヶ月間は一間半の間合いで、次の三ヶ月間は二間

間合いで
右手500本・左手500本位は撃ち込むべきです。一年後には背中の筋肉が驚くほ

発達し、力むことのないフォームで剣を撃てるようになり、命中率もまた相当なものとなってい

る筈です。


兎に角、最初の一年間は正座撃ちを貫徹することです。

 
膝から下の動きを制約して上体部を効率的に動かすことを体得し、同時に筋力を限定して

鍛えることもその目的なのです。


平野傳投剣術には・・・・・、

 手裏剣の二連銃とでもいうべき、 馬上近接戦闘に用いる特殊な手裏剣があります。 有効

間合いは初矢が
間半の矢が約四間で、 「雙飛剣・そうひけんClick hearと呼びます。


平野甚右衛門・・・・・・、
 
平野甚右衛門は、かって織田信長の家臣であったころ、使い番を勤めたほどの騎馬武者で

した。平野傳投剣術が
伝統武術であるかぎり、「雙飛剣」の投剣技法を習得して貰わなければ

なりません。そのためには、初めの一年間の正座撃ちが絶対不可欠なのです。



何故、一年間の正座撃ちが絶対不可欠なのか?

 その訳は一言で説明の付くことではなく、
「雙飛剣」をマスターして初めて、己の感覚で納

できることだからです。



 
次の二年目から立ち撃ち稽古となります。二間間合いを超えた辺りから、剣を撃つ瞬間の

指使いが微妙に違ってきます。それに関しては稽古に並行して説明します。
 
 「脇構えの撃ち・入り身構えの撃ち」
と二種類の投法を六ヶ月間で習得します。そして次の

ヶ月で居立ち構えの撃ち と進み、 次の三ヶ月で一歩踏み込んでの両手二本撃ちを習得

します。三年目は
連続四本撃ちそして六本撃ちと上級者段階へとレベルアップして行きます。


補足:

 
本来騎馬戦を得意としていただけに、特異な稽古法がありました。 馬と同じサイズの木馬

に馬鞍を置き、騎乗姿勢で稽古をしたものであると聞いております。


※使い番とは・・・・・、
前線と指令部間の情報伝達の役を負うもので、時には単騎敵中を突破してでも任務を果たす

という重要な役目であり、馬術に秀で武勇抜群の者がその任に選ばれました。




後藤流古武術の伝承に、「魔の八尺、死の七尺という例えがあります。

八尺の間合いで手裏剣を打ち込まれた場合、剣の達人ならかろうじて外せるが、七尺の間合

いならば外すことは不可能に近いという意味です。
戦国武士という者が如何に勇猛無比であ

ったか・・
。ある者は右目に矢を射かけられ、ある者は右腕を切り落とされ、ある者は太

股を槍で貫かれる等々。
しかし 、彼らの戦意は少しも挫けることはなかった。彼らは己の

血を流し尽く
すまで戦いをやめなかったのである。 それが戦場武者達の心意気というもの

あった。現代人の武術家に彼らの進撃を阻止できる者が、果たして居るものだろうか?

凡その者は、手傷を負った戦場武者達の憤怒の逆襲に、 恐怖の余り呆然自失しその場で他

愛も無く落命という事になるのだろう。


 後藤流古武術にもかっては剣術・槍術・馬術・弓術・柔術・大鎌術等々が残されていたら

しいのですが、
今に至って残っているものは僅か投剣術分銅鎖のみという、実にお寒

い状況にあります。私がここで誰かにバトンタッチしな
ければ、全てが息絶えてしまうこと

でしょう。





 当サイトを開設した2005年1月当時、平野甚右衛門と入力して検索すると、表示されたものは
ページ数にして僅か1ページと言う有様でした、それが今では、16ページという内容の濃いもの
になって居ります。                                    
(2009年5月 記す)


尾張法師・平野甚右衛門概略!
 
山鹿素行先生の「武家事紀」には、

『初め津島小法師と号す。もと尾州津島の人なり。信長に直訴して仕う。津島の者なりと言いけ

るゆえ、直ちに津島小法師と呼び給う。信長の時匹夫の魁殿をとぐる勇士は津島小法師、 筑

紫川崎つねに一、二たり。中略 、然れども度々軍令を破り、厳命を背くの罪によって、後略、改

易せらる』
 と記されているように、平野甚右衛門が武勇に傑出していたことは確かに思える。


甚右衛門の闘争心は並外れたものであったという。

信長は甚右衛門のことを評して、
一度狙った獲物は、喰らい殺すまで追い続けて戻らぬ狩犬が居るが、甚右衛門こそ正にそれ
だな!』
と、その様なことを言ったそうだ。


 
戦陣に於いて単独で敵を深追いする行為は、重大な軍規違反である。甚右衛門はまだ吉法

師と名乗っていた信長に、年齢を偽って( 元服前であることを隠していた)直訴し、家臣に取り

立てられたという身の上だったのでした。子飼いの甚右衛門に寛大な信長とは言っても、度を

過ぎた甚右衛門の命令違反を黙止することは出来なくなっていたのです。結果、織田家を追わ

れた甚右衛門は当時一向宗徒によって統治された越前 (福井県)へ流浪し、そこで浪人集団に

身を投じることとなったのである。

 その後甚右衛門は上杉謙信、景虎、景勝と仕え、晩年は尾張法師と号しその生涯を終えた。
(新人物往来社・山鹿素行著・新編武家事紀参照)



平野甚右衛門、その人物像・・・・・・。

 甚右衛門は、ちょっぽり法師・ちょっぽり甚右衛門などとあだ名されていた。当時の尾張の方言

で一寸法師のように小さい人という意味らしい。
当時の平均身長は150cm以下との説もあ

るが、 甚右衛門の身長がそれよりも著しく低いものであったことは確かだろう。


その後、甚右衛門は越前の浪人集団の中に身を投じ、忽ちのうちにボス格にのし上がったそうで

ある。
記録によると刀術の腕は相当なものであったらしいが、それだけを以て狼の群れ

の中で台頭することは出来ない。身体的に勝った者や槍術に達者な者を相手にして


完全に圧倒できる術を持たなくては、それはあり得ぬ事だからだ。


うした状況から推測してみると、平野甚右衛門の投剣術とは、私などが想像する以上に

凄いものだったのかも知れない。






500年の歴史を生き続ける「平野伝承剣」


平野伝承剣『合戦拵え真剣』



  17年ほど前に真剣を6本鍛冶屋に打って貰ったのですが、出来上がった物は、到底、的撃ちに耐えられる代物

ではなく、忽ちのうちに全数刃先を折損するという悲惨な有様でした。  その後、鍛冶屋に刃先を直して貰って再挑戦

したのですが、満足できる成果は得られませんでした。 剣一本の代価は当時で18.000円という高額なものでした。

幸いなことに、自分自身多少の鍛冶技術があったものですから、 一念発起して自分で造ってやろうと想い決めました。

写真にある『合戦拵え真剣』は彫刻刀並みの薄刃に仕上がっていますが、欅や樫木に打ち込んでも滅多なことで刃先

が折れることはありません。対衝撃性に優れた鏨材を使用した成果です。


 クレー射撃の一流射手は、年間300万円以上の弾代が掛ると言います。 そしてそれは、弓道の達人と呼ばれる人達

にも同様なことがいえるのではないでしょうか
・・・・・・。

 稽古中には剣同士が当たることがあって、どうしても刃先の損傷は避けられません。 私の場合、剣を再研磨して使

用しておりますが、多いときには年に30本位の剣を使い潰したのかも知れません。


経費削減のため、製作技術指導も究極の課題かも知れませんね。


平成十八年正月を迎えて、


 HPを開設した当初は、インターネットで手裏剣術を指導することに関して様々なご批判メールを頂きました。しかし、

コレまでの一年間を通じて、僅かな歩みではありますが、着実に技の伝承が進んでいることを実感致して居ります。人

それぞれが有する対応能力というものには、どうしても個人差がありますから、ある人には効果があったアドバイスが、

他の人では逆にマイナスになったりすること等もありました。そうした個々の相違を迅速に見取って対応すること、それ

が私と言う者に科せられた、本年の課題であると思って居ります。

PCの前に座って個々に対応するということ、動画や写真画像を作製してメール送信すること、電話で細々としたことを

聞き取りそれに適切対処すること、・・・・・以上のことは想像以上に労力を費やすものです。でも、そうした中に、手裏剣

術未経験の者が僅か二月余りの期間で、二間以上の間合いで九割を刺中させ、一間半間合いで七寸的に八割以上を

的中させている。コレは私が予測もしなかった大収穫でした。


注記:
 
読者の方から年齢制限に付いて質問されますが、基本的に年齢制限はして居りません。67

歳の方でも元気な人は居ますからね。それに平野傳の打剣法は、肘や肩に負担のかからない

フォームですから、初老の初心者の方にも抵抗無くチャレンジ出来るものです。先ず、並の者な

ら二年で三間間合い、三年で四間間合いの打剣を目標として指導します。これまでの経験では、

入門してから二ヶ月ほどはアドバイスを求められますが、打剣フォームがある程度出来上がれ

ば、もう一人稽古の段階です。お陰で、今は私も予想できないほど手間がかからなくなっていま

す。稽古用の剣や分銅鎖の製作も一段落して、少し余裕が出来てきました。熱意のある方なら

少数歓迎します。



平成十九年正月

手袋を着用しての正座打剣・最大間合い二間半です。



打剣者は福島のOG氏 (昨年七月入門)
現在の技術レベルは、二間半間合い正座打剣の場合。(左手打剣・右手打剣の精度は同等です)
刺中率100パーセント弱、五寸的的中率90パーセント強です。

2007.01.14(日)録画