平成の時代になって尚、北海道の羆害は絶えることがない。現北海道のハンターは、極普通にマグナムライフルを
所持しているが、本州から大挙して開拓民が移住してきた当時の北海道にあって、羆の備えとして最も信頼されたも
のが単発式の村田銃であった。高性能無煙火薬を使用するマクナムライフルから比べ、黒色火薬で銃弾を発射する
「単発式の村田銃」など、平成のハンターからすれば、心細い限りの代物に過ぎない。しかし、往時の羆猟の名手は、
黒色火薬で打ち出された、たった一発の銃弾で百貫目(375kg)を超える巨羆を仕留めたものであった。
◎現時点での最速記録は時速270km 計測日2012年2月11日(土)
You Tube動画・記録更新 → 時速270km click here
You Tube動画・時速229kmを記録しました。click here
カルロビッチが時速251kmの世界最高速サーブを記録したのは、2011年3月6日のデビスカップでした。
静止物体(テニスボール)の位地エネルギーに対して、特定の方向性を有するエネルギーを衝突させてやる仕組みが、テニス
流のサーブスウィングです。それに対して一見した限りで共通性を見出だせない分銅鎖術です。しかし、両者には物理的に相
共通するものが有ります。従って熟練度プラス身体能力という条件さえ満たす事が出来るなら、分銅の発射速度が時速250
kmを超え得ることも極めて現実的であると考えて居ります。
◎スピードガンで分銅速度・時速229Kmを計測しました。計測日2011年10月9日(日)
計測値:釣瓶手撃ち、最速212Kmでした。熟達者になれば250Km/hを超える可能性があります。
後藤流分銅鎖術・成り立ちの概略、
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「恐怖心を克服し、羆の鼻息が掛かるほど引き付けて、二の矢は無いものと心に決め急所を射抜く!」
後藤流分銅鎖の一撃は、羆を射止める極意とまったく同じ用法であり、それは、分銅の絶対的な速さに勝負を賭ける
事を意味しています。故に、後藤流の稽古法にあっては、絶対的な分銅の速さを追求しています。
分銅の動きから生じる凄い重力や衝撃加重が、足腰をガクガクと揺さぶって来ます。そうした物理的な力を制御する
必要上、爪先・足首・膝を柔らかく使い、それに上体を連動させなければなりません。結果的に、五体が柔軟な体質へ
と鍛えられている訳ですね。そうした一連の動きは、投剣動作の身ごなしと「合わせ鏡」の様に符合していますから、分
銅鎖の技が上達するに連れ、その相乗効果で以って投剣の技も更に切れが良くなってきます。
「お殻打ち棒」(おがらうちぼう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 後藤流分銅鎖
写真画像、左は「お殻打ち棒」です。学術的には唐竿(からさお。殻竿)
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「お殻打ち棒」は、農民一揆の主武器としてお馴染みの農具であるが、その構造および機能は、
正しく双節棍と申して宜しいでしょう。後藤翁が語った先祖からの伝承に依れば、今日に残る
後藤流分銅鎖の大元を遡ると、この「お殻打ち棒」に行き着くのだと言う。「お殻打ち棒」は
農民蜂起や戦争の時代を辿る中、戦闘用の武器へと枝分かれして行くこととなる。竿と短い棒
を連結していた金具は鉄鎖へ、次いで短い棒は鉄造りの物となった。また、それに付随して竿
は片手で操作の利く長さへと改良され、鉄造りの短い棒には、打撃力を強化する為の割り込み
が施されることとなった。鉄造りの短い棒は重量300匁であったと言う。音叉の様な切込みが穿
たれた事から、打撃時に長く余韻を曳く金属音を発したので「鳴き分銅」と呼称した。残念な
ことではあるが、外形寸法などの詳細は一切不明である。この武器は徳川政権の始まりと共に
お蔵入りの運命となって居たが、八大将軍吉宗公の尚武政策が呼び水となった全国規模の武術
ブームが到来するに及んで、後藤家の「お殻打ち」にも再び陽の目を見る機会が訪れたのであ
る。それまで後藤家に残されて来た戦場往来の技をベースにして、依り扱い易いもの、そして、
依りコンパクトで道中の携行に至便な武器へと姿形を変えた。以上の経過を辿って、今日に伝
え残された分銅鎖が、その完成された形なのです。
■但し、明和から安永(1764-1789)の頃に書かれた後藤翁の手控え帳には、分銅にも色々な形の物があった事を記憶しています。
後藤流分銅鎖術の用法:
@ 分銅を撃ち込む=直線に近い軌道で分銅を発射する。
A
分銅で殴打する=遠心力を用いた弧の軌道で分銅を叩き付ける。
B鎖で以って殴打する。(鎖を身体に絡み付ける技などもあったそうですが、残念なことに失傳しました)
C握った分銅で以って、打ち突きの攻撃を加える。
D分銅の技は、刀術および投剣の技と連繋している。
後藤流分銅鎖術の最大の特徴は、分銅を旋回させるなどの予備動作をとること無く、手の内にある
分銅を一瞬の内に発射できるところにあります。余にある分銅鎖術(鎖鎌術を含む)は、遠心力で以
って分銅を発射するのが通例ですが、後藤傳分銅鎖術に於いては、鞭の原理で以って分銅を発射し
て居りますから、その速度差は、圧倒的にして格段のものがあります。
私がかって、ある流派の鎖鎌を拝借して分銅を発射した感じでは、分銅の速さが余りにも速すぎる事から来る、
鎖が張り切った一瞬に感じた衝撃荷重は想像も付かぬほど激しく、瞬間的に、鎖が千切れてしまうのではないか
との不安を感じたものです。凡その鎖鎌に取り付けられている鎖、それも古い時代の鎖にあっては、明らかに強
度不足の物ばかりで、それを、後藤傳の打法で以って分銅を撃ち続けたとしたならば、然ほど時を置く事もなく、
鎖は衝撃加重に曝されて金属疲労を起こし、結局のところ、耐えきれず千切れてしまうこと必定です。
当然、後藤傳の技にも分銅を旋回させ、その遠心力で分銅を発射する方法も有るのですが、後藤傳
に限って申せば、主として、分銅は居合いで発射し、鎖もまた居合いで撃つという手法をとってい
ます。尚、戦国の気風をそのままに残した術理思想の後藤傳ですので、生かして敵を捕らえるなど
との技は一切残されておりません。
(捕虜を獲れば牢屋の設備が必定急務、次いで食事を与える道義が生じるし、それに24時間監視態勢の番兵を置くことになります)
と言った時代背景そのままにno prisonerが定法となって居る限り、後藤傳武術に、生け捕りの
思想や技などは一切無いのです。